昭和45年12月25日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
金光様の御信心がいかにお話を聞く事、話を聞いて助かる道と言われる事を裏書するような御理解ですね。話を聞くだけが能ではない。話を聞くと言う言が、どの様に大事な事か。また話を聞いて助かると言われておるお道の信心。信心はただ拝む事だけと、拝む事一生懸命、頼んだり拝んだりする事を、信心だと言っておる、もし信心であったらここんところは、信心は拝むだけが能ではないと言う所ですよね。
金光様の御信心は、信心は話を聞くだけが能ではない。勿論参って来ると言う事だけが能ではない、信心ではない。ですから金光様の御信心はいかにお話を、本気で頂かなければならないかと言う言が分かる。そのお話を本気で頂いた上にも頂いて、それを行じて行く行の上に現して行く。行の上に現して行かなければ、値打ちはないぞと言う事を教えておられる訳ですね。頂いたお話を頂いただけではいけない。
だから金光様の御信心を、段々頂くと所謂御理解を頂くお話を頂く。ものの道理を聞かせて貰いますから非常に道理が詳しくなる。所謂本当な言が分かって来る訳です。分かってきてもね、それを行の上に現わさなかったら、値打ちはないのだぞという訳です。ですから非常に耳が肥えて来る訳ですね。笑い話にありますよね。地獄極楽に観光バスが出来た。それで、見物に行こうち。
そしたら極楽見物から地獄見物をずっとして廻って、ガイドさんがずっと説明をして、ここがあの池地獄でございますと、ここが針の山でありますと言った様な風にして、説明をして廻った。ある所まで参りますとね、丁度キクラゲのようなものがいっぱい積み上げてある、山の様に積み上げられてある所があった。あれは何ですかち聞いた所が、あれはね、その耳だけがね極楽に行っとる所だち言うたち。
キクラゲの様に見えたとは耳じゃったげな。だから耳だけが極楽に行ったと、体の方は地獄に行ったと。それはいわゆる話を聞いただぁけで、耳が肥えとった訳けです。耳だけが豊かに肥えてた。いかにその行じなかったかと言う事です。お説教を聞くばかりが能ではない。所がお説教はもう聞きつけておるもんですからね、耳だけは肥えとる。ばってん一つも改まってはおらん。一つも行の上に現していない。
だから信者がちゃんとその、耳だけは極楽行ったけれど、体の方は地獄だったと言う事。まあ笑い話とも言えない感じが致しますね。特に私は金光様の御信心はね、話を聞いて助かると言うほどしの、言わば程しに所謂、天地の道理を説き明かされる。天地の御恩徳を説き明かされてある。ですから天地の道理を聞かせて頂いたら、道理に合う生き方にならなければいけん。ほんな事はこうする事がほんな事と分かっておっても、ばってんそんな訳にはいかんと言うたら駄目なんです。
むしろ詳しゅうならん先の方がいい。と言う様な事にまでなり兼ねない。話を聞いて助かると言う事は話を聞く。成程心が喜びに溢れてくる。本当に今まで知らなかった事、今までお粗末ご無礼であった事。知らん事とは言いながら、本当にお粗末な生き方をして来たものだと分かる。それが有り難い。分かるから今度はそれを分かった事を、日常生活の上に現して行くというのである。
そこから生まれてくるもの。それを信仰体験と言う。わが心からも練り出すが良い。私は是はわが心からも練り出されるものは何かと言うとね、私は是はおかげが練り出されるんだと思うんです。皆が求めて止まないものなんだ。所謂ご利益が練り出されてくるんです。だから先ず話を聞かなければならん。いわばものの道理を聞かせて頂いたら、所謂それを法則とも申します。天地の中にある法則。
その法則に従う生き方を、信心生活だと。天地の法則に従った生活、生き方をする。天地の大恩を説き明かしてくださる。所謂全てのものの恩を教えて下さる。そこで恩に報いる、恩を恩と分からせて頂いたら、その恩に対する所謂報いる心というものが出けなければならない自ずとと。だから、恩の生活とも言う信心生活を。恩に報いる生活なのである。その恩に報いる生活もしない道理に合った生活、所謂法則に従った生活もしない。そして天地の大恩を知っておる天地の法則。
言うなら天地の道理は知っておると言うだけでは、いけない訳ですよね。そこで練り出されてくるわけ。話を聞いて助かる。心が歓喜に満ちてくる、喜びに満ちてくる。その満ち満ちした、喜びが満ち満ちた、その心で人にも接する仕事にも打ち向かう。全ての事にです打ち向かうから、全ての事の中に実意を込めた生き方が出来るのである。私共がおかげを願わない者はありませんから、おかげを願うのです。
おかげを頂きたいと思うのです。ところがそのおかげがおかげとして現われて来ない時にです。私どもが分からなきゃならん事は、話を自分は聞いておるだけ。言わばお参りをしておるだけ拝んでおるだけ、と言う事になっておりゃせんかと言う事を、見なきゃいかん思わなきゃいけん。そっから成程というものが生まれてくる。心で練り出す。しかもその練り出されたその事は、おかげに繋がっておる。
いわばだからおかげが練り出されてくると言う事になる。どうでも一つそのおかげの練り出されてくる一つの過程というものがね、ここの所に示してあるという風に思うのです。昨日、一昨日でしたでしょうか。善導寺の原さん原昌一郎さんですね。丁度お昼頃でしたかしらお参りして見えられた。子供がちょっと具合が悪いと、こういう訳である。ほれで、まあ、お願いをして下さいとこう言う。
そこで私申しました。もう昌一郎さん最近あんたの信心は、どういう風になっとるだろうか。最近は楽人さんとしておかげを頂いて、もうそれこそ驚くばかりに上達してる。たったわずかばかりの日数で、もう月次祭位は東さんとコンビして、笙篳篥を琴に合わせて吹奏される、吹かれる言が出来る様になっておられる。ですからその事にはもう実に熱心。もう特に東さんと昌一郎さん、他四五人始めましたけれども他の者はまあ、来ませんけれど、二人はもう実に熱心に稽古をされた甲斐あってそのように上達した。
そこで本当に昌一郎さんが思われた。またお母さんでもお父さんでも、その事を非常に熱心に喜んだ。その昌一郎が楽の方に御用させて頂くと言う言が、もう月次祭にお参りをするのがね、新たな楽しみが出けた。今までは楽なんかのことには、あんまり心寄せたこともなかったけれども。息子が吹きよると思うたらね、もうそれがとても有り難いものに聞こえてくる。
少しはこの頃笙やら篳篥の音色が分かる様になったと、お父さん先日お届けしております。面白いもんじゃあるな自分げの息子が吹いたらそげん熱心になる。家族中がだから昌一郎さんの楽の稽古をされると言う事によって、信心に一つになろうとこう潤いというか、色彩が出来て来た様な感じがする。と言う程しにまぁ楽の方へ打込んで行かれた。御教えにもあります様に、此方の行は火や水の行ではない、家業の行とこう仰る。
しかも神様のお喜び頂ける様な、御用の為に打ち込んでおるのであるから。即そのままそれが信心だと、皆が誤りがちな所なのですから、ここん所を良う分からにゃいけんと言うて話した事でした。信心を段々頂かせてもろうて、お話を頂かせて頂けば頂くほどです。此方の行は火や水の行ではない、家業の行と仰るから。その家業そのものに一生懸命、真心真を打ちこんで御用をさせて貰う。昌一郎さんの場合であるなら、その事を真心を打ちこんで、いわば笙の稽古をなさった。
だから即それが信心だという風に感じた。家業の行と仰るから、もうそこに行が出けておるという事になった。これはまあ概してですから、そう言われんですけれども。楽人をするとおかげを落とすと、昔から言われております。また楽人でおかげを受ける人が、非常に少ないとも言われております。なぜかと言うとね、楽人さんと言うのは、先生と信者の相中ぐらいの、いわば位を頂いとる訳ですね形によって。
だからその位の取り扱いを受けるわけ。お装束も着けられるしですね。ですからもう信心は出来とらんなりに、出来た様な錯覚が起こるんじゃないでしょうかね。同時に今言う様に、もう自分な琴に打ち込みゃええ、自分は笙に打ち込みゃそれが信心だと思い間違う訳なのです。それ、そのおかげが本当のおかげになって来ない。本当を言うたら神様が一番喜んで下さる。お祭りの時に楽がお供えされます。
それは成程お喜びになるだろうと思いますね。ああいう一つの素晴らしいリズムが御広前一杯に広がって。拝ませて頂く信者もさる事ながら、神様のお心の上にもですいやが上にも、何か神様のお心を慰め申すと言った様な働きがあるだろうと思います。だからあらゆる宗教に、矢張りこの楽は付き物です。音楽まあその事は大変又、お話が長くなりますから申しませんけれども。
その様な例えば神様の喜んで頂く様な御用をさせて頂くのであるから、それに打込めばもう信心はいわば、それが信心の様にありそれが修行のように思い間違える所である。昌一さんあんたもそれに多分に漏れなかった。けれどもね信心を頂いてでなからにゃいけないよと私が。信心をさせて頂いて信心をさせて頂いて、その楽の方は修行にならなきゃいかんのだ。是は楽だけじゃない家業の行でもそうです。
もう金光様の御信心な家業の行ち言うちゃるけん、お参りはせんでん家で一生懸命、金光様金光様と心に念じながら、実意丁寧の限りを尽くさせて頂いて、仕事に打ち込みゃそれで良いと思うておるような人達があるんです。そうじゃないて。信心を一生懸命させて頂いて、その信心によって教えを頂き、教えがそのまま行の上に現われて来るというのでなからなければおかげにならん。
神様の一番喜んで頂くような楽の御用をさせて頂くなら、ほんなら誰よりもおかげを受けなければならん楽人さんが、おかげを昔からです受け難いと言われておるのは。そう言う所に、私はおかげを受けられない原因があると思うから、まああなたの場合でも東さんの場合でも、東さんは菊栄会昌一郎さんは松栄会。言うならここである意味での、みんなが憧れを持っておる様な信心のグループの中に入っておられる方達ばっかり。
だからもう、この人達は信心は大丈夫と、例えば思いがちな所なのですけれども、その信心の方が疎かになって、楽の方に打ちこまれた。信心の方は疎かにして、家業の行に一生懸命打ち込んでも、それはおかげにはならんのだ。信心に打ち込みなさい。信心に打ち込ませて頂いて楽に打ちこむ仕事に打ち込む。でなからんと折角の神様の喜んで頂く楽の御用を頂いて、おかげにならんような事になっては馬鹿らしい話だから。
まあ今度このみきおさんと申しますが、みきおさんが今度は具合が悪かったと言うのも、まあそう言う事の意味のお気付けじゃなかろうか。それにあんたが気付かせて頂いて、お参りをさせて頂く様になった。ほんなら今日もまた、朝参りして見えておられますが、まあ明くる日から、また朝参りが出来るようになった。その朝参りその信心が出来る。その信心が出来て、その家業の行に打ち込まれた時に、おかげが受けられるのだというわけなんです。だからその間練られたわけです。
例えば信心が頂いておった。例えばそのまあ頂き方を間違えますと、家業の行と仰るから家業をしとることが、もう信心のように思うておる。家業は行は行なんでも、信心ではない。信心は矢張り神様へ向うて来て、いわゆる御教えを頂いて、本気で御教えの勉強が出来させてもろうて、その頂いた御教えを行の上に現して行く。その行の上に現して行くところにです。またそれはある意味での行き詰まりと言った様なものも出来て来る事もあります。お話を頂いた。教えを生活の上にそれを現して行きよる。
それでも例えばおかげが受けられない。そこからこれはどう言う事であろうかという風に練られてくる訳なんです。練られて本当の心が練られて来た。本当の心が分かって来た。そこん所に私はおかげが練り出されて来るとこう思うです。そこでですね、矢張りお話を頂いて、それを生活の上に現して、繰り返し繰り返し稽古をさせて貰う。それが信心の稽古でありますが、先生が今日こういう風に教えて下さったから、そうさせて頂いたけれども、おかげが練り出されなかったと。
そこん所を私は繰り返し繰り返し、練った上にも練り直し練り直しをさせて頂いて、おかげを頂いて行かなきゃならん。そこん所が矢張り信心辛抱が又必要になってくるわけ。言われた通りしたらおかげを頂いたと言う様に、すぐ答えが出てくりゃええけれども、まあそうとばっかりはいかんのである。だからこそ又信心には見本と言うかね、言わば有難味が愈々募って来る訳なんです。
信心の共励会。是なんかも矢張り信心を、お互いの信心を話し合って。そして信心を練り合うというのである。それが共励会の目的。ただお話を頂いて自分がそれを行じて、行じた通りにしたけれどもおかげが受けられない。是はどういう訳だろうかと練らせて頂いておる内に、はぁ大事なこう言う所が分からなかったと、例えば分かって来る。信心は話を聞くだけが能ではない。
だから金光様の御信心は、先ず話を聞く事だという事が、ここで分かります。話を聞くものだと。けれどもほんなら聞いただけではいけないぞと、ここに言っておられます。聞いただけでは能ではない。ただ詳しくなっただけではいけない。その聞いた言が様々なお互いの生活の現場において、それが現されなければいけない。そこから実意丁寧な生活が出来るようになる。しかもその上いわば練り出して行かなければいけない。
私共はこの心を神様に向けると言う事は、金光様金光様と言うておるだけではいけん。金光様金光様といかに言うておっても、それは空念仏的なものであっては、神様に心を向けたことにはならない。ですから私共が静かにものを思わせて頂く様な時には、一生懸命、神様の事を思う。どういう生き方になったら、よりおかげが受けられるであろうかと思う。是を矢張りいつも思い続けること。
その思い続ける言が、心を神様に向ける事なのです。夜なんかでも言わば休ませて貰う。本当に有り難い。まぁ今日も一日おかげを頂いて有り難いという、その有り難い心で休ませて貰う。そして眠りにつくまで、何を思うておるかと言うと、一生懸命神様の事を思うておる。金光様金光様と言うておるという事だけではない。それこそお相撲さんが明日の土俵上の事を、寝ながら考えると言う。
明日はどの手で勝とうかという風に、色々あの手この手を考えると言う。私共もそうである。明日はどの手でおかげを頂こうかと。私は眠りにつかせて頂くまで、その事を考え続けて休ませて頂く。そう言う言が私は練る事だとこう思う。そう言う言が私は心を神様に向けておる姿だと私は思う。それはもう本当に例えば私共が、休ませて頂いてからそのこと所謂、明日はどの手で投げてやろうかという様にです、明日はどの手で信心をさせて頂こうかと言った様な事を。
今日一日の信心を、色々あれこれ思わせて頂いて、はああそこん所はいけなかったから、明日はあそこん所をという風にね練らせて頂く、その楽しさというものはもうそれは、信心をさせて頂いてそういう心を使わせて頂く者でなかなきゃ分からない楽しさがある。皆さん、どうでしょうか。寝ながら矢張り心を、是は寝ながらだけの事じゃありません。いわば腹があれば、ふと神様のことを思う。
勿論金光様金光様と唱える。だから金光様を唱えると言う事はです、心の中で様々にあぁでもあろうか、こうでもなかろうかと思わせて頂く事が、私は練り出すこと。今日頂いた御理解のあそこが分からなかったが、大体あれはどいういうご神意であろうかと、心に練ってみる。そこから不思議にね、新たな信心の活力が生まれて来る。不思議にそこから、信心の新たな喜びも湧いてくる。所謂心が生き生きして来る。信心の新たな喜びが湧いて来るというのも、そのように寝ても覚めても所謂。
親の事を思うと言うか神様の事を思いよる。その思いが神様に通うのである。それが感動になったり喜びになったりして、頂ける事も合点が行きます。どうぞしっかりお話を頂く。耳だけ肥えたっちゃ出けん、道理が分かっただけではでけん。分かったその事を生活の上に本気に、所謂応用して行く。中々話を聞いた時は分かっておるけれども、愈々応用と言う事になって来ると出来ない場合もある。そこん所を練って行く。練らせて頂く所から練り出されて来る、はあそうだったとこう分かって来る。
しかもその練り出させたことが本当な事になって来るに従ってです、おかげが本当なおかげになって、練り出されて来るというのですから、この様に楽しい又有り難い事はないという訳になります。信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すが良い。わが心からも練り出させて頂けれる信心。そういう信心が出来ることを、私は本当の信心生活が出来ると言う事になるのじゃないかと、こう思うですね。
どうぞ。